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AIもできる若手も使い方次第

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AI関連事業を担当している西です。

生成AIの進化は目覚ましく、刻一刻とできることが増えています。私はこのような状況を歓迎しているのですが、一方で批判的な声も耳にします。特に気になるのが、少し前の状況を引き合いに出して「こういうところがAIは駄目だから」と話すタイプの批判で、そこでは建設的な批評というよりも、「AIは使い物にならない」という結論に帰着させるための論調のように聞こえることがあることです。ここで彼らの考えを否定したいわけではありませんが、ただ、このような考えが一定数存在すると、AI活用が妨げられることが懸念されます。なぜそのような反応が生まれるのか、少し考えてみましょう。

 

心理的な防衛としてのAI批判

人は一度形成した印象を更新するのに負担を感じるものです。半年前にAIを試して期待外れだった経験は、「AIはこういうもの」という固定観念として残りやすい。生成AIの進化速度は、人間が認識を更新する速度を大きく超えているのかもしれません。過去の評価が現在にそのまま適用されてしまう。これは認知的な側面として理解できるものです。

もう一つ、感情的な側面があると考えられます。自分の専門性や経験で価値を発揮してきた人にとって、AIの進化は自己価値への脅威として感じられる可能性があります。「使い物にならない」という結論は、ある意味で心理的な防衛でもあるのです。厄介なのは、これが自覚的でないということです。本人は「AIを批判している」のではなく「冷静に評価している」と認識している。だからそれを指摘しても響かないし、むしろ「AI信者が聞く耳を持たない」と受け取られかねません。

 

できる若手の登場と同じ構造

実はこれ、AIに限った話ではありません。「できる若手の登場」にも同じ構造がないでしょうか。ベテランが若手の粗を探すとき、それは往々にして「正当な指導」という衣を纏っています。本人は純粋に品質を守ろうとしているつもりで、自身の優越性の維持や、自身の立場への脅威という動機には気づいていない。またAIの場合においては、さらに複雑な事情があります。AIには人格がないので、批判しても「誰かを傷つけている」という罪悪感が生じません。若手を批判すれば人間関係に影響が出ますが、AIを否定しても社会的コストがない。なので防衛機制がより自由に働きやすいのです。

ただし、ここで興味深い矛盾があります。「AIには人格がない」と理解しているからこそ遠慮なく批判できる。しかし同時に「AIが自分に取って代わる」と感じるということは、どこかでAIを独立した行為主体として捉えている。この二つは論理的には両立しないのに、心理的には共存することになります。意識的・言語的には「ただのツール」と理解している。しかし直感的・感情的には「何か自律的なもの」として反応している。これについては異なる認知のレイヤーで処理されていると私は見ています。

 

AIは使用者の能力に比例する

実際に生成AIを使っていて思うのは、自分がイメージできないものはAIを使ってもできない、ということです。AIの能力は使用者の能力に比例します。AIは鏡のようなもので、自分のイメージを映し出し、増幅する。そう捉えることができれば、対立構造は消えます。しかしこの認識は、ある程度AIを使い込まないと得られません。外から見ている人には、AIは「自分で何かをする存在」に見える。だから脅威にもなるし、失敗したときは「AIが駄目だった」という帰責も可能になってしまうのです。

ではどう彼らと向き合えばよいのでしょうか。正面から反論するのはおそらく逆効果でしょう。むしろ「あなたの経験や判断力があるからこそ、AIをうまく使いこなせる」という文脈を作るほうが、防衛の必要性自体を減らせるかもしれません。AIは脅威ではなく、自分の価値を増幅するもの。そう再定義できれば、状況は変わります。これはできる若手に対しても同じことが言えるでしょう。対立するものとして捉えるのではなく、自分の経験と彼らの力を組み合わせることで、より大きな成果を生み出す。結局のところ、AIとの関係性をどう捉えるかは、その人自身の自己認識とも深く関わっています。道具として使いこなすには、自分が主体であるという感覚が必要だからです。

AIもできる若手も、使い方次第なのです。

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